CAMERA OBSCURA

スナップ写真と日々の雑感

三河線の廃線跡を辿ってみた~その3

 前回に引き続き三河線の廃線跡を辿ってみた~その3です。

前回は寺津駅跡まで辿ったので、今回は西一色駅跡からです。

線路跡は寺津を過ぎるとかなり開けた田園地帯を通るコースになります。

その線路跡はといえば、こういうソーラーパネル発電に利用されています。あんまり情緒があるほうではありませんね。そのかわりソーラーパネルが目印になるので、線路跡を辿るのは比較的楽でした。

そしてたどり着いた西一色駅跡。駅構内であったと思われる敷地はかなり広く、貨物の積み下ろしをしていたという情報もあります。一色高等学校の最寄り駅で、通学利用者は多かったようです。

ここもホーム跡は残っておらず、更地にして新しい住宅を建てる整地がされているようでした。

次は三河一色駅跡に来ました。記憶ではそこそこ立派な駅舎があったと思ったのですが、今は解体されてホーム跡だけが残っています。

一色といえばうなぎが有名ですが、遠く向こう側にうなぎの看板が見えます。ホーム跡はまだしっかり残っていて、当時の面影をよく残しています。

駅前のこの雰囲気はまだしっかり覚えており、15年前の記憶が呼び起こされます。駅前の商店街は比較的残っている店が多く、廃線前は賑やかっだったのだというのが伺えます。

駅に向かって右側の様子。奥に見えるのはJAの建物です。この風景はよく覚えてるわ~。廃線後もJAは未だ健在で、駐車場からひっきりなしに営業者が出入りしていました。

次は松木島駅跡ですが、ここでどうにもお腹が減って力が出なくなってきたので、途中コンビニで食料を補給し休憩しました。碧南駅から距離的には10kmちょっとなのですが、ウロウロ街なかを探しながら走っていたのでエネルギー切れです。

そしてたどり着いたのが松木島駅。この駅は名古屋鉄道に合併される前の三河鉄道時代には、三河鉄道社長の神谷傅兵衛にちなんで神谷駅と名付けられていました。

当時の駅舎はコンクリート造りのかなりモダンな駅舎でしたが、1978年に駅舎は解体されました。「三河鉄道 神谷駅」で画像検索すると当時の駅舎が見れます。

このスロープはその駅舎の名残で、その駅舎の大きさを測り知ることができます。

線路跡から碧南方向へ向かっての撮影。しっかりとホーム跡は残っています。

振り返って吉良吉田方面です。線路はここからまっすぐ矢作古川を渡っていました。

ここも廃線跡の土手が残されています。

矢作古川を渡ったあとの鉄橋に掛かる前の土手。いまではソーラーパネルが乗っかっており、なんとも微妙な景観となっています。

あとは開けた田圃道を走る廃線跡に並走しながら、やっとこ吉良吉田駅に到着。

吉良吉田駅は名鉄西尾線と蒲郡線の終着駅にもなっており、もちろん三河線の終着駅でもありました。碧南~吉良吉田間が気動車になる前は蒲郡まで行けたらしいですが、鉄ちゃんではないのでそこらへんの詳しいいきさつはわかりません。

というか名鉄の運用が変態的すぎて、歴史を詳しく調べないと全くわからないのでここでは軽く流しておきます。

吉良吉田駅手前にある踏切から、碧南方面に向かって撮影。線路が伸びているように見えますが、途中で無くなっています。

この踏切は蒲郡線の列車が吉良吉田駅に到着するときは遮断器がおります。万が一のオーバーランに備えてでしょうか。

ちょうど蒲郡線のホームに列車が来たので撮っておきました。列車の型番とかは分かりません。蒲郡線も廃線になった三河線と同じく、存続の危機にあるのでできるだけ撮っておこうと思います。

こんなかんじで名鉄三河線(海線)の廃線跡を辿ってみましたが、正直めっちゃくちゃつかれました。当日になって思いつきでやってみたので、下調べをあまりしていませんでした。そのため行きあたりばったりになってしまい、右往左往することが多かったと反省。

あと鉄の人には物足りない記事になってしまったと思いますが、申し訳ないです。というわけで三河線の廃線跡を辿ってみたシリーズはこれにて終了です。

YouTubeなどで名鉄三河線で検索すると、今回辿った廃線前の走行動画なんかもあったりします。

わたしの地元にはまだ廃線跡が結構あるみたいなので、今度はちゃんと下調べしてから辿ってみたいと思います。